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ISASメールマガジン

ISASメールマガジン 第32号

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ISASメールマガジン   第032号        【発行日− 05.04.12】
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★ こんにちは、山本です。
 今日は、ペンシルロケット50周年の記念日です。日本の固体ロケットが歴史的一歩を踏み出した日です。
 というわけで今週は、的川広報委員長に書いていただきました。

── INDEX──────────────────────────────
★01:ペンシル50年の節目の日に
☆02:M-V-6号機の第2組立オペレーション無事終了
☆03:宇宙科学講演と映画の会のお知らせ
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★01:ペンシル50年の節目の日に

 50年前、1955年(昭和30年)の4月12日、東京の国分寺で長さ23cm、直径1.8cm、重さ200グラムの小さなロケットが水平に発射されました。ペンシルロケットです。その時のシュッという短い発射音が、日本の宇宙開発の産声でした。そのとき50年後の今日の宇宙開発の姿を心に思い描いた人がいたでしょうか。それは知る由もありませんが、私には、糸川英夫先生だけはもっともっと進んだ姿を想像していた可能性があると思っています。その証拠の文章が当時毎日新聞に載った「科学は作る」という記事です。そこには「太平洋を20分で横断するロケット旅客機」という彼の夢が紹介されています。そして当時の東京大学生産技術研究所の若い研究者たちが、この魅力的な構想に心を躍らせて、AVSA(Avionics and Supersonic Aerodynamics)研究会に参加してきたのでした。この小さなAVSA研究会が、すぐにペンシルを生み出し、後に国際地球観測年を始めとする日本の宇宙科学の世界への雄飛をサポートする宇宙工学陣の土台となったのでした。

 私は当時中学生になったばかりでした。新聞に載ったペンシルの記事を読み、父や兄たちが「ああ、日本もロケットを始めるんだって……」と語り合っている様子を、淡い印象ながら覚えています。サンフランシスコ体制が敷かれて間もない日本、やっと第二次世界大戦後の占領状態から脱け出し、独立して自分の道を歩み始めたばかりの祖国の夜明けでした。国分寺の新中央工業の敷地にあったピストルの試射場跡で水平に打たれたペンシルが、その年の文部省の十大ニュースに選ばれました。私の脳裏になぜかずっと後々まで印象を残したわが家の茶の間の雰囲気は、家族のみんなが「日本が明るい未来に向けて出発したような」予感を口にしたものだったこと、つまり裏を返せば、このロケット実験が、日本の未来を照らすささやかなともし火だったことを告げているのだと思っています。

 その後日本のロケット開発は、太平洋横断のロケット旅客機ではなく、先述したように理学部の人たちの宇宙科学への挑戦と手を携えて発展し、その時々の科学の要求に応えながらミュー(M)ロケットの大型化、高性能化を進めてきました。観測ロケットの大型化、日本初の人工衛星「おおすみ」(1970)、日本初のX線天文衛星「はくちょう」(1979)、固体燃料による世界初の地球重力脱出であるハレー探査試験機「さきがけ」(1985)、日本初の月ミッション「ひてん」(1990)、人類の太陽像を塗り替えた「ようこう」(1991)、大規模な太陽地球系物理学の国際観測計画で活躍した「ジオテイル」(1992)、1990年代の世界のX線天文学をリードした「あすか」(1993)、世界初のスペースVLBIを張った電波天文衛星「はるか」など、ペンシルの後継者たちが屋台骨となって世界の宇宙科学にトップクラスの貢献をしたミッションは、枚挙に暇がないほどです。

 2003年5月には、小惑星からのサンプルリターンを狙う「はやぶさ」(2003)が打ち上げられました。これは、他天体からの表面物質を地球に持ち帰るアポロ計画以来の初めての試みです。現在「はやぶさ」は、小惑星「イトカワ」に向かってイオンエンジンを駆って驀進中であり、今年の秋にはターゲットに接近、観測、サンプル収集作業を行います。この小惑星に「イトカワ」という名前をつけたことを、糸川先生は何と思われるでしょうか。「大きさがわずか500mくらいの星に私の名前をつけるなんて」と言われそうですね。でも、50年前にペンシルが受け持った日本の驚異的成長の幕開けを予告するものだったのと同じように、この「はやぶさ」ミッションが、閉塞感に覆われている現在の日本にとっての光の道しるべになってほしいと願うのは、ミッションの関係者だけではないでしょう。50年前のペンシルが果たした役割を担うべきその栄えあるミッションのターゲットに、奇しくもペンシルの演出者の名前が冠せられていることは、本当に面白いと思いますね。

 残念ながら、1998年に打ち上げられた日本初の火星探査機「のぞみ」は、軌道投入を諦めざるをえなかったわけですし、本来は工学実験探査機である「はやぶさ」も、地球帰還までのシナリオを完璧に描ききれるかどうかは神のみぞ知ることです。でも、日本の太陽系進出の技術が、この2機の残した教訓によって飛躍的に強化されていることは明らかで、日本は世界に伍して、あるいは部分的には世界をリードする技術を身につけつつあることは確実です。あせらず暖かい眼で見守っていただきたいですね。

 ペンシルは、これからまさに伸びていこうとする日本にとって、小さな灯台となりました。宇宙が未来への投資であることを象徴的に物語っていると思います。ロケットを1機打ち上げるたびに、宇宙開発への賛否が渦巻く日本の環境では、未来を拓く宇宙活動を展開することが非常に語りにくい局面にあります。しかし一方で、最近発表された「JAXA長期ビジョン」へのみなさんの反応を見ていると、本当は「未来志向の強力な牽引車」の出現をみんなが求めているのだということを、逆説的にビンビンと感じ取ることができます。出された長期ビジョンは、現在のJAXAの力量と現状を凝縮した形で直接物語っているものであり、それ以上でも以下でもありません。ここから私たちは出発するほかはないのです。

 50年前のペンシルを作り上げた人たちが、当初は科学を支えようと思っていたのではなく、純粋にエンジニアリングの世界で未来を描こうとした人たちであったことを、最近私はよく考えることがあります。そのことに想いを馳せるとき、現在の、経済が開花し人心が荒廃する祖国の未来を照らすともし火が、新たに宇宙をめざす若者たちによって点されることが期待されます。あの毎日新聞の記事で50年前に糸川英夫先生が示唆した「太平洋横断ロケット旅客機」は、今やっと世界で本格的な取り組みにかかっているところです。その意味では、今から50年後をめざす大きな計画を心に設計する創造力と想像力に溢れた自由な発想の若者たちが出現して欲しい。私は今しみじみとそのことを感じています。そのような志をもって、ペンシル50周年の今年まもなく、JAXAに「宇宙教育センター」を設立します。宇宙の現場から若者たちの成長を心から支援する日本中、世界中の連携の大運動の核となることを夢見て。

(的川泰宣、まとがわ・やすのり)

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※※※ ☆02以降の項目は省略します(発行当時のトピックス等のため) ※※※