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GEOTAIL計画が成立するまで

ISTP計画構成図(左端がジオテイル)

ISTP計画構成図(左端がジオテイル)

1978年ごろから地球周辺の宇宙空間に衛星ネットワークを張り巡らせて磁気圏物理の研究を前進させようという気運が高まり、アメリカの研究者を中心にOPEN計画の立案が始められた。OPENはOrigin of Plasmas in the Earth's Neighborhoodの略である。宇宙研の西田篤弘は、企画委員会のメンバーの一人であった。

西田は、立案に参加しているうちに、宇宙研も同じ時期に科学衛星を打ち上げてこの計画に自主的な立場から参加すべきだと思うようになった。理由の一つは、原案では磁気圏の主要な領域が十分にカバーされず、“重要な問題”を解く鍵が得られないおそれがあるということであり、もう一つは宇宙研がNASAのOPENと対等に取り組む力を獲得しつつあるということであった。すでにハレー彗星探査計画が走り出し、ロケット、衛星、通信など、さまざまな面で日本の宇宙活動の力が飛躍的に発展しつつあった時期であった。

“重要な問題”とは、磁気圏尾部で起きる磁力線リコネクションのことである。磁力線リコネクションは磁場に蓄えられたエネルギーを解放してプラズマを加速する過程で、磁気圏ダイナミックスの要の役割を果たすメカニズムである。それにもかかわらず、OPENの原案には、リコネクションが爆発的に発生する地球から20ないし30Re(Reは地球の半径)の尾部領域を観測できる衛星が含まれていなかった。そこで、宇宙観測専門委員会のもとにOPEN-J研究班を設け、赤道周回軌道での実験計画を作った。

ところが、1983年初めにNASAから、OPEN計画の一つである衛星(EML)をOPEN-Jに置き換えてスペースシャトルで打ち上げるという提案がもたらされた。NASAがスペースシャトルで打ち上げるというのであれば、ロケット開発経費が節約できるだけでなく衛星を大型化することができる。しかし、その衛星は放射線帯観測を主目的とする衛星であって高度も数Re程度でしかなく、OPEN-Jの目的を果たすことはできない。その年の5月に来所したOPEN担当者代表はこの不整合に弾力的に対応し、EMLを磁気圏尾部の遠隔領域を探査する衛星(GTL)との置き換えも考慮することを約束した。

その背景には、OPEN提案がNASAで行き詰まっていたということがある。彼らは4基の衛星を打ち上げる計画を作っていたのであるが、これには約800億円を要するため、OSSA(科学・応用部)部長から、国際協力によって経費を分散することがOPEN計画実現のための必要条件だと告げられていたのである。

OPEN代表は9月に再び来所し、GTLとOPEN-Jを統合して新たな衛星計画を作ること、この衛星の軌道は2段階に分け、最初はGTL的な遠隔尾部観測衛星とし、その後軌道を低くしてOPEN-J的な近尾部観測を行うことで合意した。こうしてGEOTAIL計画が生まれたのである。同時にOPEN計画は再編成されてISTP(International Solar Terrestrial Physics)計画となった。NASA(米)、ESA(欧)、IKI(露)、ISAS(日)の共同プロジェクトである。

GEOTAIL計画が日米共同計画として滑り出したばかりの1986年にChallenger事故が起き、打上げがシャトルからデルタIIロケットに変更された。不測の事態であったが、発足直後だったために大きな支障もなく計画を改定することができた。発足時には予想できなかった難題は、協力協定の「損害賠償請求権相互放棄」条項で日米両政府が真っ向から対立したことである。GEOTAIL計画だけでなくこれに続くSFU計画でも、当時の文部省に多大なご苦労をおかけした案件だった。日米の取り決めとして、ロケットはアメリカ側が担当し責任をもって衛星を打ち上げ、衛星は日本側が担当し、設計・製作・試験・運用を行うこととなった。

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