• 前のページに戻る

回収

若田光一宇宙飛行士が操作したSFUの回収

若田光一宇宙飛行士が操作したSFUの回収

スペ-スシャトルに搭乗中の若田宇宙飛行士

スペースシャトルに搭乗中の若田宇宙飛行士

1995年の暮れ、回収準備完了と思われていたSFUに不具合が発生。12月26日、姿勢制御用推進系のスラスタ12基のうち2基が不調となり、明けて1996年元旦に解析結果を携えて清水幸夫がヒューストンに飛ぶ。1月2日から安全パネルと討議を始め、翌日にシャトルの支援を若干増やせばSFUは回収可能な状態にあると判断され、1月4日の飛行準備完了審査会でSTS-72、エンデバー号の打上げがGOとなる。前年同様に慌ただしい年末年始であったが、とにかくシャトル打上げにこぎつけた。

ヒューストンにはペイロード代表として、宇宙研から的川泰宣の他に小野田淳次郎がカスタマー支援室(CSR)に詰め、NASDA、USEFの代表と共に二交替の体制で回収運用にのぞんだ。勿論、実務部隊は二宮敬虔指揮のもと相模原のスペース・オペレーション・センター(SOC)にあって、CSRスタッフは事があった時のNASAのMCCスタッフとの協議相手である。エンデバー号は1996年1月11日18時41分(日本標準時、以下同じ)に打ち上げられ、予定の軌道に達した。SFUとシャトルのランデブー方式として、初期にはコントロールボックス(会合点設定)ランデブーを検討していたが、1991年頃からシャトルが直接SFU軌道に達するグランドアップ(直接)ランデブーを採用することとなった(但し、シャトルのエンジン不調の場合には、SFUが軌道変換するハイブリッド(複合)ランデブーを行うことが前提となっていた)。ヒューストン現地の報道対応は的川が率いた。

14時50分には、相模原のSOCからシャトルを経由してSFUと通信するPI(Payload Interleaver)リンクが確立し、15時44分にはシャトル軌道制御の最終接近開始(TI:Terminal Initiation)が行われた。次の周回で太陽電池パドル(SAP)を折り畳んで収納しようとしたが、収納後の固定の確認ができず、予備系、主系、合計3回の部分展開・再収納を試みたものの状況に変化なし。CSRからヘッドホンを通して聞くSOCの室内は騒然としていて、CSRとの連絡係も席から離れている様子。太陽電池パドルの切り離しを決断する前に、既にSOCでは地球指向に姿勢を変えて切り離しに備えていたが、これは回収にとっても都合のよい姿勢であり好判断であった。

第3回で再収納が果せなかった後は、MCC/SOCでとび交う声は一段と高くなり、決断の近いことを感じた。あと2周回を経ると飛行士達は睡眠準備に入る。「あと10分」とのメッセージをペイロード運用主任から受けてSOCと合意の上、栗木は太陽電池パドル切り離しを決断した。

「ラッチがかからない場合は切り離し」という緊急時のプランはNASAと合意して訓練もできていたのだが、やはりその段になるとNASAスタッフももう一度試みようというSFUスタッフと心が一つになっていた。SFUの設計基本要求には「SFUは故障しても、身体が半分になっても必ず帰還する事が最優先の要求である」とあるが、これを実行することとなった。

切り離しは極めて順調に進み、その後若田光一宇宙飛行士の操作するロボットアーム(RMS)により、SFUはカーゴベイへと納まった。NASA安全パネルの長、バタグリヤ氏は、「切り棄てられる太陽電池パネルを見るのは技術者として忍びなかった。だが、切り離し機構が切れっぱし一つ残さずに見事に働いたことは誇ってよい成果だ」と声をかけてくれた。

カテゴリーメニュー