第7章 はじまった大型の国際協力

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プロジェクトのはじまり

SFUプロジェクトは文部省宇宙科学研究所(ISAS)、科学技術庁(STA)/宇宙開発事業団(NASDA)、通商産業省(MITI)の共同プロジェクトとして、1987年より発足した。MITIの実務は新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)/無人宇宙実験システム研究開発機構(USEF)が実施した。システムとりまとめ、追跡管制及び軌道運用、NASAとの諸調整はISASが、H-IIロケット打ち上げ及び搭載作業はNASDAが、そして実験にかかわる電力、データ処理等のサブシステムはNEDO/USEFが、それぞれ主体となって担当し、他の二者がこれに協力するという体制で実施された。実験装置は、リソース(重量、運用時間など)を均等に分けることを前提に、三者が独自に開発した。

SFUの公称は「宇宙実験・観測フリーフライヤー」で1986年に宇宙開発委員会が決めたものである。どうしてこんな長い名になったかは不明である。一方Space Flyer Unit(SFU)という英語名は1982年頃、当時SEPAC主査の任にあたっていた大林辰蔵がNASAマーシャル宇宙飛行センターの科学者らと一緒につけた名前である。名付けられたフリーフライヤーは8角形で、これが原形となった。「SFとはどうも嬉しくない」と絵空言に終るのを気にする人もいたが、ライト兄弟“Flyer”の宇宙版として、航空機のように再利用を目指す名前が気に入っている人もいた。

1983年に宇宙研に「小型宇宙プラットフォーム(SFU)ワーキンググループ」が設置され設計が始まった。初期の設計全重量は3トン(H-II打上げ時は3,850kg)で、「3トンでも小型なの?」とよく聞かれた。当時は、米国スペースインダストリー社、フランスCNES/マトラ社のSOLARISなど5~10トン級のプラットフォーム構想がひしめいていたので、プロジェクトを率いる栗木恭一としては、多少気がひけて「小型」を付けたのである。また、初期構想ではスペースシャトルで打ち上げて放出した後、約一週間シャトル周辺で実験を行い、同じシャトルで回収して地上に戻る方式であった。

その後1986年に打上げにはH-IIを使用すること、89年には気象衛星ひまわり5号との二重打上げが決まった。そのためSFUは投入高度約300kmから運用高度約500kmに自力で達することになった。この軌道上昇とスペースシャトルとのランデブー(下降)のため、軌道変換用推進系(OCT)が装備され、650kgのヒドラジンが搭載された。

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