第7章 はじまった大型の国際協力

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たかがナット、されどナット──1回目の失敗

いろいろと幸運も重なり、大林の実験計画はいわゆるアクティブ実験として、スペースラブの最初の飛行で行われることになった。日本側は主要機器である電子ビームとプラズマの加速器および観測機器を開発し、米国側はスペースラブ搭載用管制装置とソフトウエアを担当した。大林からその装置を開発する日米合同チームのプロジェクトエンジニアに任命されたのが、長友信人だった。

ただしそれからが大変だった。アメリカ人同士でも言いたいことは表現を変えて3回は繰り返さなければならないような複雑なシステムの中で、会話そのものをスピーディに出来ない日本人チームは随分と苦労を重ねた。しかしアメリカ側の辛抱強さにも大いに助けられ、最終的には大切なことはもれなくコミュニケーションができ、日本人チームは最終的にはスペースラブの搭乗科学者の訓練計画まで作成し、参加した宇宙飛行士たちが評価表に賛辞を書き連ねるほどの実施計画が完成した。

スペースラブ1号の飛行は遅れに遅れた。その間、東京大学宇宙航空研究所は1981年に文部省宇宙科学研究所になり、世の中で宇宙ステーションが話題になり始めた1983年11月、SEPACはSTS-9に搭載されて打ち上げられた。SEPACが軌道上の最初のチェックアウトを無事にパスしたとき、長友は救われた気持ちでジョンソン宇宙センターの管制室から解放され、宇宙ステーションのワークショップが開かれるワシントンDCに移動した。

ホテルの部屋で、テレビに映し出されるスペースラブの様子を見つめていた長友は、画面が時々明るくなるのを見て、「あ、これはMPDアークジェットの光だな。いいぞ、いいぞ」と思いつつも、電子ビームが出てくる様子がないので、「電子ビームはテレビには映りにくいのだ」と勝手に判断していた。まさかその時すでに電子銃の電源が故障していたことは知る由もなかったのである。

シャトルが地球に帰還して、電源の中にナットが1個見つかった。これが宇宙で浮遊して悪さをしてフューズがとび、人工オーロラの生成を含む高エネルギーの実験は実施できなかったのである。実験は失敗と評価され、計画は事実上打ち切りとなった。

SEPACのオーロラ生成実験イメージ図

SEPAC実験装置配置図

SEPAC実験装置

SEPAC実験装置

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