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ISASニュース

西村敏充先生を偲ぶ

No.423(2016年6月)掲載

 初めてお目にかかったのは、1974年のことでした。米国のNASAの研究所群を歴訪した時のことです。武者修行というほどのことでもない駆け足の旅でしたが、私の最大の目的は、カリフォルニアのJPL(Jet Propulsion Laboratory)でした。私は惑星間飛行に強い関心を抱いていましたが、当時の日本はようやく初の人工衛星「おおすみ」を成功させた段階で、惑星間飛行はとても手の届かぬ試みでした。なかんずく、超遠距離にある探査機の軌道決定は、我々にとって白紙の技術でした。惑星間飛行の総本山というべきJPLを訪ね、いろいろと見聞する中で先生とお会いする機会を得たことは、この旅行での最大の収穫だったと思っています。何しろ、超遠距離での軌道決定をご専門とされ、NASAの諸計画で実際に役割を果たされた方ですから。いつの日か日本が惑星間飛行に乗り出す時に備えて、先生の存在を深く心に刻んで、日本に帰りました。

 後に1981年に宇宙科学研究所が東京大学から分離独立して設立され、ハレー彗星の探査が計画された時、日本に戻っておられた先生を所にお迎えできたことは幸運でした。軌道決定プログラムはISSOPの名で、富士通の協力も得て先生の手により完成し、我が国初の惑星間ミッションであるハレー彗星の探査も成功しました。近年の「はやぶさ」「あかつき」等の諸ミッションも先生のお仕事を下敷きにしています。

 お酒がお好きでカラオケがお好きで、宇宙研では時間外を十分に楽しまれたのではないでしょうか。体力に優れた的川(泰宣)君がもっぱらお相手をしました。

 ストックホルムだったでしょうか、当地の酒アクアビットの度が過ぎて翌日の飛行機を逃されたことがあります。我々は安いチケットすなわち変更不可のチケットを利用していたので、随分と高い一杯になったはずです。

 カラオケについては、歌いながら次の曲を探すという特技をお持ちでした。米国滞在時の空白を埋めるかのようにでした。

 内之浦での楽しかった時間を偲びつつ、心からご冥福をお祈りいたします。

(宇宙科学研究所元所長 松尾 弘毅)

西村敏充先生