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ISASニュース

「はやぶさ」サンプル分析・第1回国際AOを終えて

No.376(2012年7月)掲載

「はやぶさ」は2010年6月、小惑星イトカワから微粒子を持ち帰った。サンプルは事前に選定されていたチームによる初期分析にかけられた。小惑星表面で宇宙空間にさらされていた微粒子らの物語が速報された2011年夏ごろ、筆者は国際AO委員会を担当することになった。国際AOとは、全世界の研究者に研究提案を公募し、選定されたものには研究機会を提供するというものだ。海外勢と議論しながら物事を決めていく過程は嫌いではないので、引き受けた。

AO発行の日付を決め、国際AO準備会でシニアクラスのご意見を伺って大方針を決める。「はやぶさ」微粒子は、そのサイズが技術的ハードルを高くするので応募できる研究者数が限られる、という議論にもなった。結局、30〜50の提案はあるだろうから大丈夫でしょうと、やや突き放された雰囲気で国際AO委員会がスタートする。

委員会メンバーも決め、2011年3月のLPSC(宇宙惑星物質分析分野では最も多くの人が集まる会議である)の日程をポイントにしてAO進行の全体日程も決める。提案書を受け付け、それをレフェリーに提示し、レフェリーからのレポートと合流させ、それらを委員会メンバーへと提示するページの設計・実装・運用試験を済ませ、2012年1月のAO発行を迎える。3月上旬、提案締め切り。3月下旬、LPSCでの委員会会合で、レフェリーを決定する。

そして、GW明けの4日間、相模原キャンパス新A棟会議室にこもっての最終会議である。自由に意見を言い合う雰囲気の会合では、座長は議論の進展を正確に追跡しつつ着地点を予想しながら議論をナビゲートしなければならない。また、そこでの議論だけでなく、各種情報のやや複雑な整理も同時進行で行う必要があり、サポートスタッフには洗練された即興的な動きが要求された。

無事に委員会をクローズし、記者発表が6月13日。帰還からちょうど2年だった。第1回国際AOまでは、「はやぶさ」プロジェクトの活動だった。「はやぶさ」プロジェクト解散後は、キュレーション活動へ長期的視野に立った方向性を与える親委員会が必須である。

(藤本正樹)

ビートルズのベスト盤・レコジャケみたいな。確かに、キュレータは“The fool on the hill” で、キュレーション活動は“The long and winding road” である。