「あ すか」の思い出

 海老沢 研 (ASCA GOF, NASA/GSFC)

大学4年のとき、身近な友人たちが次々と 就職を決めて、終身雇用の社会人になっていくのを、感心して眺めていた。 当時の僕には、その後数十年の人生の方向を決めて踏み出す勇気も自信も なかった。結局、二年留年して希望どおり大学院に進学し、 宇宙研で充実した大学院生活を送ることができた。 1991年に博士課程を終えた後、さらに学振で一年間宇宙研に残ることにしたが、 大学院を終了しても、その先 どんな仕事についてどんな人生を歩むべきか、まだ迷っていた。 生活するために就職を探してはいたが、どうしても日本国内で、 いわゆるパーマネントな職につく決心はつかなかった。

当時、たくさんのアメリカの大学院生や、イギリスのポスドクが「ぎんが」の 解析のために宇宙研に来ていた。彼らが異国暮らしを楽しんでいる姿に 影響され、また自分が生まれ育った日本以外の世界を経験してみたいと 思い、とりあえず外国でポスドクをすることを決心した。今ほど 海外のポスドクに応募するのが普通ではなかった時代であるが、いろいろと つてを頼り、アムステルダム、ミュンヘン(MPE)、ボストン(cfa)、そして GSFCの仕事を探してきた。その中から GSFCを選んだ理由は、新しく設立されたASCA Guest Observer Facility (GOF)の一員として、自分の宇宙研での経験が生かせると考えたことと、 契約が他に比べて長期だったことである。日本への出張の機会が多いことも 魅力だった。

ASCA GOFのボスであるNick Whiteは、当時EXOSATを使ったX線連星系の研究で 有名であり、日本の「てんま」グループの強力なライバルであった。僕の博士論文 のテーマは「ぎんが」によるブラックホール候補天体の観測であるが、その中で、 White et al.によるEXOSATの結果を二つ、完全に否定している。一つはCyg X-1 からの赤方偏移した強い鉄輝線の観測、もう一つはブラックホール候補のhigh stateのスペクトルは「unsaturated Comptonization」による、というものである。 前者については、「ぎんが」による10 keV以上の高精度のスペクトルから ディスク反射成分の存在が明らかになり、それを考慮すると鉄輝線はずっと 弱くて細いということがわかった。後者については、複数の ブラックホールのスペクトルに光学的に厚い降着円盤モデルを当てはめてみると、 強度が大きく変化しても内縁の半径はシュバルツシルト半径の3倍で一定、という きれいな結果から、光学的に厚い降着円盤モデルが確立した。 僕の博士論文の中では、かなり激しくWhite et al.を批判しているので、 一緒に仕事をしていく上で最初は少々緊張したが、まったく問題はなかった。 新しい、優れた装置で観測したら 古い結果が書き換えられるのは当然であり、僕はたまたま運が良く、大学院の時に、 「ぎんが」が素晴らしい結果を出した現場に居合わせることができただけだ。 ちなみに「ぎんが」の大面積比例計数管はイギリス製、Nick Whiteはイギリス人である。

結局、アメリカで、イギリス人のボスの下で、日本人、イギリス人、 アメリカ人の同僚と、日米共同の「あすか」衛星の仕事をすることになった。 最初はいろいろと混乱もあったが、結局「あすか」の日米協力は非常にうまくいったと 思っている。「あすか」は数々の素晴らしい成果を挙げ、いまや「あすか」アーカイブスは、 その解析ソフトウェアと共に 世界中に無料で開放され、誰でも「あすか」のデータを使い、その成果を享受し、 発表することが できる。いろいろな国の人間が協力して大プロジェクトを実現し、 科学的成果を挙げ、普遍的な知識を共有し後世に残すという、少々大げさに言えば、 人類にとって非常に有意義な営みの一端で仕事をすることができて、 とても幸運だったと実感している。

1992年の4月、30歳のときにGSFCに着任、途中からASTRO-E GOFに移行し、 もうかれこれ9年以上過ぎた。 結局、30代のほとんどをアメリカで過ごしたことになる。その間にアメリカ永住権 を取得し、初めて家を買った。アメリカで生まれた二人の子供は7歳と4歳になった。 僕がバイリンガルな「Ken」という名前で、非常に便利だったので息子たちにも 論(Ron)、弾(Dan)という名前をつけた。もし、「あすか」が存在しなかったら、 僕はどこでどんな30代を送っていただろうか?僕の子供たちも、少なくとも こういう名前では この世に誕生していなかったかもしれない、と思うと不思議な気がする。 論はアメリカの学校で英語とフランス語 を習いつつ、週末は日本語学校に通い、苦労しながら漢字を覚えている。 僕が相模原の小学校に通っていた頃は、学校から帰ると、 当時はまだたくさんあった田んぼで ざりがにやおたまじゃくしを取ったり、暗くなるまでただ遊ぶだけで、 勉強したという記憶はほとんどない。外国語を学ぶとか、ましてや外国に住んで、 日本語以外の言葉の中で生活すること なんて夢にも思わなかった。僕自身の子供時代とはまったく異なる今の環境が、 二人の子供の人生になんらかのプラスになって欲しいと願っているが、 さてどうなることやら。 論と弾が大きくなったとき、自分たちがアメリカで生まれるきっかけになった 「あすか」衛星のことを知ったらどう思うだろうか?

なんだかんだとトラブルもたくさんあったが、アメリカでの生活は 基本的に楽しかった。妻もアメリカに来た当初は友達もなくやることもなく、 熊本の実家に「英語が全然わからんばい」と言って電話で泣きついたりしていたが、 いつのまにかイラン人やパキスタン人の友達をつくり、すぐに慣れたようだ。 いまやグリーンベルトは僕らの故郷みたいなもので、日本とかヨーロッパ からグリーンベルトの小さな我が家に帰ってくるとほっとする。しかし、宇宙研に 出張の際、高校卒業まで過ごした相模原の実家に帰ってもほっとするし、 大学時代を過ごした京都に行っても気持ちが落ち着く。町田の炭火の ホルモン焼きや京都の居酒屋やラーメン屋が好きなように、 College parkのベトナム ラーメンや、Wheatonのチャーシュー麺も好きだ。今、この拙稿をジュネーブで 書いているが、ジュネーブも三回目で、街中のカバブサンドイッチの屋台も 馴染みになった。サンドイッチをほおばりながらぶらぶらと歩き、 ストリートミュージシャンに耳を済ましていると 心がやすらぐ。この夏から数年ジュネーブで暮らす予定だが、この街も また故郷の一つになりそうだ。天文学を勉強し、今の仕事についたお蔭で、 自分の生活のテリトリーが世界中に広がっていくような気分になるのは なかなか心地よい。

GSFCで仕事をしてきて、少々の科学的成果を挙げることができ、人工衛星 データ解析等の技術的なことも学んだ。 しかしそれよりも、異文化の中で、さまざまなバックグラウンドやキャラクター を持っている人たちと、うまく折り合いをつけながらなんとか 仕事を進めていく術を体得し、自信を得たことのほうが、 貴重な経験だったという気がする。僕の仕事の立場上、 日本人からは日本語で、アメリカ人からは英語で文句を言われることも多々 あったが、そこを何とか丸くおさめ、まとめるという役割も、嫌いではなかった。 ASTRO-Eの解析システムの開発ではそういう役割に徹し、自分なりに努力し、 いいものができあがったと思っているのだが、 その優秀さを実証することができなかったのが残念である。

ASTRO-Eの仕事がなくなってしまい、妻と幼い二人の息子を抱えて どうしたものかと思って いたところ、NickからジュネーブのINTEGRAL Data Science Center (ISDC) で仕事をしないかと言われ、迷わず手をあげた。人工衛星解析システムの開発なら 経験があるし、機会があればしばらくヨーロッパに住んでみたいと前から 思っていた。ESA諸国とアメリカ、ロシアの共同の大国際プロジェクトだが、そういう インターナショナルな環境にも慣れている。

しかし、開発中のISDCのソフトウェアシステムを見てみると、 これが結構大変なシロモノであった。 初めて衛星解析システムを手がけるISDCでは、 頑固なスイス人やドイツ人が中心になり、 今までの衛星とはまったく違った、かなりヘンテコなことをやろうとしている (イベントの時刻、位置、エネルギーを別々のファイルに入れておくとか)。 我々GSFCはISDCよりはるかに経験があり、正しいやり方というものを 知っているし、このままでは大きな問題になることは目に見えている。 だが、Nickやアメリカ人の同僚と相談の上、賢い戦略として、 正面から批判、対立することは避け、「やんわりと」根回しをはかることにした。 INTEGRALチームの全体ミーティングの前に、ISDCのキーメンバーと Nickと僕がローカルに会って、「今のままでもとても良いソフトウェア システムだと思うが、さらに他のミッションと共通フォーマットの イベントファイルを持つようしてはどうだろうか、他にもこれこれという 修正をしたら、我々の経験から言って、もっと素晴らしいものになると 思うよ……」、というようなアプローチをした。ISDCスタッフ曰く、 確かにそれはその通りで、実はそういう可能性も考えていたんだ……。 そして、全体ミーティングでは、ISDCのスタッフが我々の提案を 取り入れた「彼らの」アイデアを発表し、僕がそのアイデアを サポート、賞賛する発表をした。Mission completedである。 「あすか」の仕事で身につけた、国際根回し術が実に役に立った。

2002年秋のINTEGRAL衛星の打ち上げに向けて、 ISDC、GSFCのスタッフと協力して、 ユーザーが使いやすい、優れた解析システムを開発 することが僕の仕事である。 基本的にGSFCが今までやってきたようなやり方でやれば いいはずなのだが、ヨーロッパ人は、アメリカが何でも自分たちの やり方を押し付けることに反感を持っている。 GSFCのスタッフからは、僕がアメリカ人でないことは有利なので、問題があっても 正面からぶつからず、ワインでも飲みながら根回しをする ような、「Japanese approach」で行け、と言われている。 ヨーロッパ中から人間が集まっているISDCのような 環境で、もし僕が仕事をなんとかこなすことができ、優れたINTEGRAL システムの開発に貢献ができれば、そこには間違いなく、 「あすか」、ASTRO-Eの仕事をする上で、 日本とアメリカのうるさいサイエンティストに揉まれてきた経験が生きている。

INTEGRALの仕事とヨーロッパの生活をしばらく楽しんだ後は、 またGSFCでASTRO-E2の仕事に戻りたいと思っている。 しかし、自分がその先、どこに住んで、どんな仕事について、 どんな人生を送っていくのか、まだ見えてきていない。

2001年6月 ジュネーブから国境をほんの少し越えたフランスのホテルにて