No.283
2004.10

ISASニュース 2004.10 No.283

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太平洋の橋と端 

的 川 泰 宣 


 これを書いている瞬間は,バンクーバーから成田への機上にいる。バンクーバーの学会は,こまごまとした会議がびっしりと詰まっていた。出発前から,観光らしい所は行けても1カ所だろうと思っていたら,その通りになった。

 そこで選んだのは,新渡戸稲造記念公園である。ラッキーなことに見事な黄葉に囲まれて,しばしの散策を楽しんだ。頭の巡るままに自由な想いにふけっていると,浮かんできたのはクラークのことであった。と言うと,ほとんどの方はArthur C. Clarkeのことだとお考えだろうが,この場合はWilliam S. Clarkである。

 クラーク博士といえば「ああ」という人も多かろう。1870年代,当時北海道開拓使長官だった黒田清隆がクラーク博士の招聘に着手したとき,クラーク博士はマサチューセッツ農科大学の学長さんだった。人格・知見ともに抜群で人気の高かったクラークが職半ばにして日本に渡ることに,理事会は当然反対した。それを押し切って1年の日本滞在を実現したのは,主としてクラーク本人であったと伝えられている。

 以下は『国際人 新渡戸稲造』(花井等著,広池学園出版部)からの引用である。

《当時,日本の学校は細かな規則を設けて生徒の一挙手一投足を縛ろうとする弊があった。他律の教育観である。……クラークはこうした教育観と真っ向から対立する。彼の信念は自律の教育観であった。彼は生徒たちの良心ある行動を信じた。他から命じられて何かをする。あるいは他から強制されて正しい行動をするようでは独立した人格たりえないとした。……彼は生徒たちが覚えきれないようなたくさんの校則をいっさい廃止し,ただ一言,“Be gentlemen”と述べただけだった。》

 クラーク博士が“Boys, be ambitious.”の言葉を残して帰米したのは,わずか1年後である。その次の年,新渡戸稲造が札幌農学校に入学したそうである。新渡戸稲造も徹底的に自律を説いた。その依拠すべき民族的伝統が「武士道」であった。

 敷島の大和心を人問はば
  朝日に匂ふ山桜花  (本居宣長)

 かくすればかくなるものと知りながら
  やむにやまれぬ大和魂  (吉田松陰)

 これは新渡戸稲造の『武士道』に引用されている和歌の中でも,高校生時代の私の心を最も感動的に揺すぶった2首である。

 私の母は桜が好きだった。ソメイヨシノではなく山桜が好きだったらしい。この本居宣長の歌が山桜を表しているかどうかは不明だが,私が母に「どうして山桜の方がいいの?」と問うと,母はいつも黙って微笑むだけだった。大学3年の春,母倒るの報を長兄から電話で聞いて呉に駆けつけた。「もうじき桜だね」と病床の母に話し掛けると,母が少し目を開くようにして「山桜の方が好きな訳が分かった?」と聞いてきた。母が「腸穿孔」という病名で世を去ったのは,それから3日後のことだった。

 父は能の師匠。愛読書は『風姿花伝』(世阿弥)と『日本外史』(頼山陽)だった。「初心忘るべからず」や「秘すれば花」や男時と女時の話など世阿弥の言葉とともに,平重盛の「忠ならんと欲すれば孝ならず,孝ならんと欲すれば忠ならず」(日本外史)などの話も,小学校時代の年端もいかないうちから,何百回聞かされたか分からない。

 国を愛するということを最も教えてくれた書は『武士道』だったように思う。新渡戸稲造が外国語を学ぶ意味を尋ねられて,「われ太平洋の橋とならん」と答えたくだりは有名だが,彼にあっても,日本という国がなければ「国際」はなかったことは明らかである。

 バンクーバーで「アメリカ,ヨーロッパ,カナダ,インド,中国などいろんな国の宇宙機関の人たちの話を聞きました。今はグローバリゼーションだから,日本という狭い国にこだわっていないで,日本の若者全員が国際人として生きていけばいい時代なんですよね。JAXAはビジョンを持っていないそうですが,私は悲観していません」と,にこやかに語りかける大学生を,私が「そんな考え方では,いつまでたっても太平洋の橋じゃあなくて太平洋の端だよ」と思いながら訝しそうに見つめたのは,新渡戸稲造記念公園を散策した翌日のことであった。自律を教えてくれた新渡戸稲造は,バンクーバーで生涯を閉じた。

(まとがわ・やすのり) 


新渡戸稲造記念公園

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