No.242
2001.5

小田稔先生の想い出  
ISASニュース 2001.5 No.242  

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宮 本 重 徳 



宮本重徳先生と(K-9M-31号機実験,1971年8月)

 小田稔先生のお名前を私が初めてお聞きしたのは,1954年4月に,私が大阪大学の大学院に進学し,勉学・研究の心構えをお聞きするために,指導教授の渡瀬譲先生のお部屋へうかがった時です。この時,渡瀬先生は,「小田稔君は,現在アメリカに行っていますが,理論に偏せず,実験にも偏せず,面白い事を考え出す,立派な研究者です。君は小田君を見習いなさい」と言われました。当時,小田稔先生はフルブライト留学生として,MITのロッシー教授の元で空気シャワーの研究をされていたのでした。1年程の後に小田先生は大阪に帰ってこられましたが,すぐに,日本初の共同利用研究所として発足した東大原子核研究所の宇宙線部の助教授として赴任され,空気シャワーの観測研究に従事されました。その数年後の1962年X線を出す天体がMITのロッシー教授達により発見されました。小田先生はロッシー教授の誘いで再びMITに行かれ,有名なスダレコリメーターを発明され,1966年3月にさそり座にあるX線星さそり座X-1の位置をロケット観測により求められました。その直後に,小田先生は東大の宇宙航空研究所の教授として帰国され,同年6月に東京天文台の大沢清輝・寿岳潤両先生と共に岡山観測所の望遠鏡を用いて,さそり座X-1が青白い星であることを発見されました。その岡山観測所よりの帰途,大阪に立ち寄られ,青い星発見の詳しい話をされ,私はわくわくしながらその話を聞きました。その後,私は渡瀬先生のお薦めにより,1967年4月より宇宙研の小田先生のX線天文グループに参加する事になりました。

 小田稔先生は,渡瀬先生よりお聞きしていた通りの,普通の人は考えないようなことを考えつかれる,独創的な先生でした。当時の宇宙研での小田先生のグループの研究課題は,スダレコリメーターを用いた観測実験とX線星の時間変動の観測でした。ふらふらする気球観測装置にスダレコリメーターを取り付け,はくちょう座X-1の位置を決定したり,スダレコリメーターを取り付けた気球観測装置を使って,かに星雲のX線源の形を観測する様な研究は,常人では考え付かない研究でしょう。同じ観測装置をロケットに搭載し,さそり座X-1を続けて3回観測する計画を立て,さそり座X-1及びその近くに偶々出現したX線新星のX線強度とスペクトルが変化しているのを観測したこともあります。また,当時,不思議なX線星と考えられていたはくちょう座X-1X線強度のロケット観測のデータを,小田先生は,人の声の声紋を調べるソナグラフにかけて,X線の時間変動の周波数分析をされました。X線天文学の初期には,X線星のX線強度が変化することは余り考慮されておらず,第号のX線天文衛星ウフルの観測データー処理のソフトには,その用意がされていなかったのを,ウフルの打ち上げ直後に小田先生がMITに行かれ,X線の時間変動の研究のためにソフトの変更を促され,この結果,X線パルサーの発見等が行われたのは良く知られたことです。私は10年間宇宙研の小田先生のグループで研究を続け,大阪大学に帰りました。阪大に帰った後も,X線星の時間変動の研究を続けました。その結果を,小田先生にゆっくりお話したかったのですが,その機会が得られないままに,先生がお亡くなりになったのは,大変残念なことです。

(大阪大学名誉教授,大阪体育大学) 


K-10-4号機実験の面々(1969年1月)


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