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No.242 |
星の王子さま小田稔先生を偲ぶ
ISASニュース 2001.5 No.242
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栗 原 文 良星の王子さまから星のおじいさまへ(小田稔先生画) 先生との出会いは1960年頃だったと思います。先生が東大事務局の予算の部屋に,時の原子核研究所事務長の同道で突如として来られて,「国際共同研究で設備の予算が必要となったので是非お願いしたい」とおっしゃいました。それは,ボリビアのチャカルタヤ山上(標高5,200m)に鉛ガラス・チェレンコフ検出器を設置して宇宙線の観測研究をしたいとの趣旨でした。金額については,記憶は定かではありませんが1,000万円程度であったと思います。当時としては高額のため,本来なら正式に概算要求をして認めてもらうところ,それではブラジル,米国(MIT)共同研究計画に間に合わないとのことなので,文部省にいきなり強引に要求をして一件落着をしました。しかしその後検出器が完成し輸送の段になると,国有財産を外国に持ち出すことは物品管理法上出来ないという難題が発生しました。それではということで,またまた無い知恵を絞り,ボリビアのチャカルタヤ研究所に貸与の形をとり,共同研究に供するということで何とか目的達成することができました。これによって先生は宇宙線の研究において立派な成果をあげられたとのことでした。 そこで「宇宙線研究とは何のことか?」という疑問を解消すべく,静岡県の旧清水トンネル跡にあった大阪市立大学の渡瀬譲教授の宇宙線観測施設で難しい勉強をさせていただきましたが,途中,鞠子のトロロ飯を堪能し,近くの旅館に一泊しました。一晩中飲みながらの楽しい楽しい勉強会は忘れることはできません。学問への強欲なあくなき研究心のかたまり,物理屋魂(目的の為には手段を選ばず?)の持ち主,一方ヒューマニストとしての素敵な人に常々憧れつつ……。 その後再会の歓びは,宇宙航空研究所教授としてロケットによる宇宙空間観測実験研究のためMITより赴任された1966年で,以後現在まで親しくお付き合いさせていただきました。当時宇宙航空研究所は,共同利用研究所としての創設期であり,施設・設備の建設に大わらわでした。ロケットや観測器については,K型ロケットの観測事業までは比較的順調に行なわれ,予算も他部局から羨ましがられる程思う通りに認められ,幸先のよい滑り出しに見受けられましたが,ラムダ型ロケットによる人工衛星の打ち上げ期になった途端つまづき始めました。先生はこれを大変心配されるとともに,研究計画の遅れに我慢がならず,「インドのロケットによる観測を始めたいから観測機器製作の予算を確保して欲しい」との要望が再三あり,またもや難題を早速手配して,インドでの実験に何度か成功し成果があがったようでした。 こういうことこそが弾力性に富んだ国際共同研究というものでしょうか? 我々行政屋の杓子定規のお役所的な仕事のみでは,世界に先駆けての研究はできないでしょうと,大いに考えさせられた先生の研究スタンスでした。その後ラムダ・ロケットによる日本初の人工衛星の誕生以来,順調な観測事業が進み,さらには,ミュー型ロケットによる人工衛星観測へと進み,すだれコリメータによるブラックホールの発見,X線天文学の開拓者として学問を築きあげられた先生のご努力に心よりの敬服いたしている次第です。 「日本の宇宙科学の父」は,「日本の科学で世界のトップにある分野は限られている。伝統を絶やしてはいけない」ということを常々の信条にしていらっしゃいました。そして「失敗は成功の基である」と。先生との最近の出会いは,東大原子核研究所(田無キャンパス)のサヨナラ・パーティー,千葉柏新キャンパスにおける宇宙線研究所,物性研究所の竣工式などがあります。毎年歴代所長を囲んでの宇宙研事務OB忘年会等々の集い(時にはご夫妻で年2〜3回程度)には,専ら楽しく懐かしい若かかりし頃の思い出話に花を咲かせていたような次第で,思い出は尽きません。 小田稔先生のあの柔和なゆったりとした人格にもう会う事はできません,悲しく,寂しい限りです。小田稔先生,今まで通り,宇宙の彼方より宇宙科学研究所の益々の発展と教職員一同のご活躍をご高覧あれ! 衷心よりご冥福をお祈りいたします。 (元東京大学宇宙航空研究所) |
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