No.228
2000.3

ISASニュース 2000.3 No.228

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香港とベトナムの工科大学

桑 原 邦 郎  

 我々の世代はベトナム戦争のころ学生時代を過ごし,人によってはベトナム戦争反対の運動に加わってきていた。毎日の新聞で見たサイゴン,ダナン,ハノイ,フエ,ディエンビエンフーなど,ベトナムの都市の名前は強く印象に残っていたので,ハノイ工科大学のLe Hung Son先生から彼の大学で講演してくれないかという話があった時,すぐに是非という答えをしてしまった。ただ,それだけのためにハノイに行くのは大変なので,ついでのときに行こうと思っていた。

 2000年1月に香港で私の親しいPing Chen先生が主催する熱流体力学とエネルギー問題に関する国際会議があり,私も出席することになったのと,香港dashハノイは飛行機で1時間半のところにあるので,この機会にハノイにも行くことにした。

 2000年1月9日成田から香港に到着。香港に行くのは中国返還後初めてであった。以前の危険な狭い空港に比べて,新空港は大きくモダンになっていた。以前の空港に比べて都心から大きく離れているのが問題だと言われていたが,行ってみると道路はよく整備されてとてもスムースに都心のホテルへ行けた。この道路の横には新しい鉄道も平行して走っていて,飛行場へのアクセスは全く問題がないと見受けられた。島の間をいくつかの大きな橋で結ばれていて,景色もすばらしい。

 次の日は朝から学会会場の香港科技大に行く。この大学は香港返還前に新空港との大プロジェクトの一方として作られた新しい大学である。九龍の複雑で風光明媚な海岸線の上に作られている。これを作るにあたっては欧米に散らばっていた多くの中国系の学者が特別待遇で集められた。この大学は数年前には完成していて,私も何度か訪問していたのだが,また来てみても,大規模な理工系の大学を総力をあげて作る,これから発展しようとする国の意欲が強く感じられる。私の講演は初日だったので,終わった後は少し気が楽になり,おいしい中華料理を堪能し,3日目は香港からハノイへ行く。

 香港都心から空港へは遠いと言ってもタクシーで30分程である。あまりに大きな新空港で戸惑いながらもアオザイ姿のスチュワーデスに導かれ,ベトナム航空のハノイ行きの飛行機に乗り込む。1時間45分程の飛行の後ハノイ空港に着く。香港の新空港とは打って変わって質素な空港であったが,小さいので極めてスムースに入国。そこにSon先生が迎えに来てくれていて大学の車でハノイ市内へ。空港周辺はあまり人家らしいものはなく畑と田んぼばかり。30分程ドライブすると都心に着くが,高層の建物はなく,小規模なビルと住宅が混在していた。しかしさすがにもう北爆の直接的な跡は見られない。まだ車は非常に少なく,人々はモーターバイクによって動くのが最も普通のように見受けられた。そうするうちに大学のそばのホテルに着く。ホテルは外国人用の高級ホテルだったのでほっとする。一休みするとSon先生がホンダのたぶん50ccくらいのモーターバイクで迎えに来てくれ,ちょっとした市内見物と夕食に連れて行ってくれた。このとき先生が運転するモーターバイクの後ろに乗せてもらった。学生の時以来初めてバイクの後に相乗りし,始めはちょっと不安だったがハノイ市内ではごく普通の光景だし,混雑する市内を巧みに運転するのですぐ慣れてしまった。夜の市内は日本のような派手さがほとんどなく,なんとなく寂しい。

 次の日の朝,ハノイ工科大学に行く。この大学はベトナム最大の工科系の大学である。建物は古く低層でけっして立派なものではないが,広い整備された中庭があり学生たちが散策したり,おしゃべりしたりしている姿が印象的である。講演ではSon先生の友人の軍服を着た将官も聞きに来ていて,まだ共産国だということを思い出してしまった。この将官は流体力学をよく知っているようで,一番熱心に質問をしてくれた。

 講演のあと,またSon先生がモーターバイクで市内を案内してくれた。小さな商店や道端に商品が山のように並べられ,雑然とはしているが活気が感じられる。伝統的な家具や大理石に彫刻した器など手作りのものは,品質に対して非常に安く,つい買いたくなってしまう。

 ベトナムは日本と同じように中国文化の影響を強く受けている。ベトナム最初の大学の跡に行ったが,そこには孔子を奉ってあって,論語を勉強するために作ったもののようであった。その庭に,その大学で学位を取った人の名前が刻まれた石碑が並べてある。Son先生の祖父の名もあるはずだが,自分は漢字が読めないので残念ながらどれだかわからないといっていた。

 その晩にSon先生の自宅に招かれ物理学者である奥さんの手料理をご馳走になる。外国人にとってはベトナム料理と中国料理との区別が難しかった。食後入れてくれたお茶がまさに日本の玉露と同じように,人肌の温度まで冷ましたお湯でゆっくり丁寧に入れてくれ,あまいその味香りは日本の極上の玉露を飲んだ時そのものであった。

 もちろん全体的にはまだ極めて貧しいが,彼は大学から歩ける距離に200m2もある石造りの自宅を個人所有していた。世界中どこに行っても,日本の住宅の貧しさを考えると,日本の豊かさとは何かと考えさせられる。翌日,大学の車で空港まで送っていただき,香港経由無事成田着。

(くわはら・くにお)



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