No.227
2000.2

ISASニュース 2000.1 No.227

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わき役・予感・引き際

林 紀 幸  



 芝居の世界では主役とわき役がある。どんな世界でも,主役をつとめる人,わき役をつとめる人がおのずといる。宇宙科学研究所でもその役割ははっきりしている。教授・助教授・助手・技官と言うように。我々技官層のわき役の中にも,目立つわき役と目立たないけれど,キラリと光るわき役がいる。それぞれ自分達が何をしなければいけないか,良く仕事に対して理解していて,ロケットの実験と言う目的(頂点)に向けて,心を一つにして進む。

 私は42年間ロケット班の一員として,秋田県道川のロケット実験場,能代実験場(地上テスト),鹿児島県内之浦と約430機のロケット飛翔実験と地上テストにわき役と言うより裏方として参加してきた,おそらく平和目的のロケット飛翔をこの目で確かめた(機数では)世界でも数少ない一人ではないか。

 初めてロケット実験に参加したのは1958年4月K-150T-1号機で勿論道川実験場だった。糸川先生始め皆さん年齢が若く,生き生きとして議論に夢中になっている姿は,今でも忘れられない。ロケットの技術的なことが少し解りかけてきた頃だったと思う。そしてその後ロケットが大型化するにつれて,宇宙開発事業団が発足し,ロケット時代を迎えるわけだが,常にこの最初のロケット開発に携わった人達がイニシアチブをとって,日本の宇宙開発を支えてきたと言っても過言ではない。

 今時代は変わろうとしている。日本でも相次ぐロケットの失敗,アメリカの火星探査機の着陸失敗など,ロケット先進国の方がより多くの問題を抱えているように思える。世の中が不況になるとパーツの品質が悪くなる,というのが私の持論。小さなビス1本まで製造する人たちが,この部品がどのようにロケットに使用されているか,理解していることが理想である。そしてそれを使う側も,機能部品も適切に組み立て,必要な時に完全に故障しないで力を発揮させるよう細心の注意で望むことである。

 失敗と言えばこの42年間で何機のロケットの失敗に直面したか,1958年頃は発射するとロケットは正常に飛翔するが,電子機器(今は電子だが,その頃は真空管)が故障することが多く,データの取得がままならない状態が続いた。1959年K-7-1号機が,1962年5月24日には点火と同時にK-8-10号機が大爆発する事故になった。結局秋田県道川はその後実験場として使用することならぬと,町当局から言い渡され現在に至っている。

 鹿児島県内之浦町の宇宙空間観測所(KSC)は1962年8月から本格的に稼動を開始,現在まで372機の飛翔が行われた。KSCでも失敗はある。ラムダロケットが人工衛星を軌道に投入しようとして,失敗を続けている頃,K-10C-2号機が,姿勢制御装置の故障により,第2段ロケットがランチャ上で点火,第2段ロケットのみ飛翔する事故が起こった。新聞沙汰になる大きな事故は秋田・鹿児島でのこの2件であるが,小さな失敗は他にもあった。ラムダロケットは軌道に乗せられないこと4回,振り返って見ると,背筋の寒い日が続いた……。

 その頃自分の中で変化が起こりつつあった。それはL-4S-4号機実験前の予感である。ふとこのロケットは失敗するのでは,という予感,それは現実になり,その後いくつかのロケットでも似たようなことが起きた。

 根拠と言う程のことではないが,秋田県能代実験場で雪の夜,一時間に一度モータの温度計測を言いつかり,吹雪の中に出るのが大変なので,モータのそばに目覚まし持参で毛布を持ち込み寝起き(何日も)していたことがある。ロケットと一体となって寝起きをしているうちにロケットと仲良くなり,いつの間にか,ロケットと話ができる人になっていたのではないか,これは私だけが持つ特殊な状態だと自負しているが,本当のところは解らない。

 何はともあれ,42年間,宇宙科学研究所では,人身事故もなく,私自身は健康で過ごせたことは,私を理解してくださった方たちのおかげである,と心から思う。今こうして引き際にあたって,思い残すことなく,潔く,後輩である吉田裕二君にすべてを託したいと……。

(はやし・のりゆき) 


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