No.218
1999.5

ISASニュース 1999.5 No.218

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いも焼酎を嗜んだころ

安田晴彦  

 私は大学院時代猪瀬博先生のご指導の下,ディジタル通信に関する研究を行ったが,1963年博士課程修了と同時に,東大生産技術研究所に就職し,野村民也先生の下の助教授として,右も左も分からないまま観測ロケットグループに仲間入りした。1955年頃の国際宇宙観測年(IGY)に関連して,故糸川英夫先生の主導で始められた観測ロケットの研究開発も,カッパ型からラムダ型へと大型化し,打ち上げ場所を秋田県道川海岸から鹿児島県内之浦町へと移したばかりであった。私はラムダ2型1号機の打ち上げにテレメータ班の主任として初参加した。現在の主力ロケットM-V型の直径2.5メートルに比べると僅か73.5cmのスリムなロケットであったが,発射台地を見おろすテレメータ台地の観測室内からかいま見た発射の瞬間は今でも鮮明に記憶している。はらわたを揺るがす轟音と振動,初めての経験に深く感動した。その後より大型のロケットを含めて何度も打ち上げを見てきたが,この初回の経験が最も印象深いものであった。もっとも,このL-2-1号機2段目に点火せず,53km沖の太平洋に着水し,実験そのものは失敗に終わった。

 当時テレメータ班の定宿は中俣旅館で,横山幸嗣,鈴木康夫,坂本義行,横山茂士,井上浩三郎,村田悠紀夫ほかの諸氏と寝食をともにし,いも焼酎を嗜み,五右衛門風呂で汗を流した。一旦内之浦入りすると,小型機の実験を含めて数機の打ち上げがあるのが普通で,メインイベントの打ち上げ日には午前2時頃宿を後にして実験場へ向かうという状況であった。こうした苦労も今にして思い返せば,懐かしい思い出である。

 ところで,私が生研に奉職した頃,観測ロケットグループは大きな転機に直面していた。翌年には観測ロケットの研究はグループごと生研を離れ,航空研究所を改組して設立される宇宙航空研究所に移管されることになった。私は研究をしっかりするようにとの斎藤成文先生のお言葉に従って生研に残留した。まだ二十歳台の若さで実質的に上司がいないまま,以後一人で研究室を運営することとなった。少々育ちが悪いのはそのせいでもあるが,半面,複数の先生方に直接間接に目を掛けて頂くことが出来た。その後暫くはロケット実験に参加し,科学衛星のテレメータやコマンド系の設計のお手伝いをしていたが,漸次間遠になり,研究は天上から地上へ舞い降りていった。結局私が直接ロケットや科学衛星の仕事に携わったのは5年間のことに過ぎなかっが,社会人として最初に取り組んだ仕事であり,その後の私に大きな影響を与えたように思う。本当の専門家とは言えないにも拘わらず,衛星通信や移動体通信等の各種委員会等に出席してもあまり違和感なく務められるのは,この時代に培った無線通信に関する土地感が生きているためのようだ。

 宇宙科学研究所の最近の華々しい成果を見ると,昔日の感がある。私は終始宇宙研究・開発のシンパであったし,これからもあり続けるだろう。

(やすだ・やすひこ)



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