No.217
1999.4

ISASニュース 1999.4 No.217 


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有り難う御座いました 糸川先生

平尾邦雄  



 研究生活の4分の3を宇宙と共に過ごした私にとって糸川先生は忘れられない先生のお一人である。戦後もう日本では飛行機ではなくてロケットだと言われて,何時も一足先に進んで居られた先生とは何か不思議な縁で結ばれていたように思う。AVSAで太平洋を20分で横断と言う目的をかかげられて居た頃の先生は知らないが,地球観測年の為に観測ロケットを作り,科学衛星打ち上げに向かって動き出された頃の先生とは色々とおつき合いをする事になった。1957年国際地球観測年(IGY)が始まるに際して,わが国独自でロケットを開発して観測を行おうと言う決定は,ロケット飛行機を研究されていた先生のグループが存在していたからこそ出来たのである。

 先生のやりだしたら止まらない積極さと,常に転換性を持った発想とで,驚くほどの早さでK-6型ロケットが開発されて,IGYの後半とは言え国際的な観測網の一端に加わる事が出来たのである。その後もK-8型K-9M型L型と驚くべき早さで新しいロケットが開発されて,ついにL-4Sで「おおすみ」衛星の打ち上げに成功し,同時進行で進められていたMロケットで科学衛星の計画を進める事が出来るようになったのは,ひとえに糸川先生と後継の先生方のお陰である。もしこの滑り出しが無かったら,我々は今でも外国の力に頼ってしか宇宙研究が出来なかったのではないかと思われるのである。

 初めて私達が道川実験場で電離層プローブをK-8型ロケットに搭載して観測を始めたのはIGY期間後であったが,時折私達の調整小屋に見に来られた先生の顔を今でも忘れる事が出来ない。ロケット担当の人にとっては恐い先生であったかも知れないが,それに載って観測をする我々には何時も嬉しそうなお顔でしっかりやって下さいと励まして頂いた。私達はその先生が同じ時に既に小さな球形ロケットを考えて予備実験をやって居られたのも忘れる事が出来ない。只神出鬼没の先生であったので多分色々な所を常に廻られていて次にはどうしたら良いかと考えられて居たのであろう。



 東大宇宙研になってSA研究委員会が発足した時私は未だ電波研究所に居たが,頻繁に開かれる研究班の会合に出席していた。初めの頃は糸川先生もよく出席されていたが,ある時「電波研は良く給料を払ってくれますね」と言われた事も今では懐かしい思い出である。その後糸川先生は色々な批判を受けて嫌気がさされたのであろうが東大教授を辞められた。批判をするより批判をされたいのは持ち前だと或る所に書かれているが,その先生は周りの人の努力を高くかわれる方であったと思う。その後は先生の講演を聞く機会はあったがお話しをする機会は残念ながら無かった。お亡くなりになったのを聞いたのも宇宙研の友人からであった。

 先生本当に有り難う御座いました。お陰様で私達の研究も世界に認められる様になりました。


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小田 稔
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