No.217
1999.4

ISASニュース 1999.4 No.217 


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糸川先生のご逝去を悼む

秋葉鐐二郎  



 長いご闘病の末,先生がお亡くなりになったのは2月21日の早暁でした。この2年間殆ど昏睡状態であったとのことですが,昨年先生の86回目の誕生日を記念して催された講演会の講師としてお招きいただき,お見舞い申し上げた時は,何やらお気づきになられたご様子があったのは単に勝手な希望的推測でありましたでしょうか。

 先生は終始私の恩師でありました。ロケットの研究にお誘いを受けたのは,私が大学院志望を申し入れたときでした。今から考えると,先生もこのころ本格的に仕事を転換しようと決心されたようで,生産技術研究所における研究組織AVSA研究班もこのころ形をなしたとのことです。この研究班の研究目標はロケット輸送機でしたがそれが科学観測を目的の研究に衣替えをしたのは,1955年の初頭です。つまり,国際地球観測年IGYへのロケット観測による参加です。ここで始まった平和目的の日本の宇宙開発は,糸川先生の卓見無しには実現しえなかったものであります。幾つかの偶然が重なった結果とはいえ,その年の4月に行われたペンシルロケットの実験は,我が国の宇宙開発史上で記念碑的な出来事でした。ともあれこのような初期段階で我が国が宇宙開発に参加したことにより,自主開発の土壌が造成され,その結果今日世界の宇宙開発における不動の地位を築くことが出来たわけであり,先生は我が国宇宙開発の大恩人であります。



 すでにペンシルロケットの頃から先生は人工衛星打ち上げに並々ならぬ意欲をお持ちで,ロケットが大型化されるたびに私共に人工衛星が打ち上げられないかとよくお尋ねになりました。そのような検討結果の一例は1960年ISRA(現在のIATS)に私と共著で発表した球形ロケットの論文にも見られ,後に言う重力ターン方式による打ち上げ法が述べられています。本格的科学衛星計画は後にM計画として始動したのですが,先生は未知の技術開発にいきなり高価な大型ロケットを使うことに疑問を持たれ,それを一回り小さくしたL-4Sの計画を自ら提案なされました。残念ながら,結果においてL-4S計画が先生を辞任に追い込んでしまい,先生は1967年に東大を去られました。 



 悪戦苦闘の末,5号機においてわが国初の人工衛星「おおすみ」の誕生となったのですが,後に伺ったところ,先生は中東の砂漠の中をドライブ中にそのニュースを聞き涙が止まらなかったと述懐されておられました。そのようなわけで,先生が宇宙開発に携われた期間はわずか12年余でありました。

 ご退官後は組織工学研究所を設立され,弟弟子の長友信人宇宙科学研究所教授の言葉を借りれば,多方面にわたる大衆的思想家として大活躍されました。

 なすべきことをすべて成し遂げた最期の安らかなお顔を脳裏に泛べつつ,ご冥福をお祈り申し上げます。


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