No.209
1998.8

ISASニュース 1998.8 No.209

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淵野辺の駅舎を思い出しながら

松本 保之   

 宇宙研への転任を命ぜられたのは,丁度年前の日でした。前勤務地が同じ共同利用研でビッグサイエンスの研究機関である核融合研だったこともあり,本心を言えば今度は,分野の違う大学なり研究所を想定していただけに大いに緊張したものでした。それは,核融合研と同様に宇宙研が多額の予算を使う研究のため,世間の注目度も高く,その実験結果は直ちに明らかになることから,研究目的が未知への挑戦であり,失敗はつきものとはいえ,失敗した場合の風当たりは内外ともに厳しいものがあるからでした。

 まず,直面したのが専門用語やカタカナ語の意味を理解することでした。これは,諸先輩や各課の担当者の努力によって豊富な資料が揃っていて,労を惜しまなければクリアーできるだけの材料は用意されていましたが,充分勉強したかと言われれば恥じるばかりです。

 月に着任早々,会計検査院の実地検査が相模原キャンパスとKSCで実施され,KSCで講評を受けるため出かける直前に,台風号の接近により空路が全面ストップし,やむなく検査官一行を羽田空港まで出迎えたことも思い出の一つになりました。総務庁行政監察局の,宇宙開発体制の行政監察の事前ヒアリングが開始され,この行政監察への対応は,平成10月に勧告書が出されるまで足かけ年間に亘りました。この間,先方の認識不足や見解の違い等により,宇宙研の真の姿や内外の斯界からの評価,期待度などを理解していただくのに大変な努力を要したのですが,所長の陣頭指揮のもと,教官や技官の全面的な協力を得,全所員の努力の結果報告書では宇宙研については,主要な論点について概ね主張が通ったものになったのではないかと思っています。

 平成年の年が明けると,いよいよM-V初号機の打上げを目前に控え,所内はピリピリとした張りつめた空気となり,当初日の予定が11日に延期され,当日強風のため,更に12日午後50分に打ち上げられ見事成功したのですが,当日,新宮原台地で文部省の関係官等と見た初号機の勇姿は,一生の思い出となりました。

 宇宙研の管理部の所掌事務は極めて多岐にわたり,大学や他の共同利用研では経験出来ないことがらが沢山あり,振り返ってみると大変勉強になったと思います。

 例えば,科学技術庁を始めとする他省庁との折衝,県や町単位の協力会の人達との交流,漁業関係団体との接触,実験場が所在する地方公共団体との交渉,新聞,テレビ等のマスコミへの対応など,極めて重要なことです。また,外国とりわけ米国のNASAとの協定に関する交渉など国際的な繋がりの多さも他の機関ではあまり例のないことです。

 大学院教育にも参画している宇宙研の研究・教育活動への支援組織である管理部は,行財政改革の嵐の中で定員削減の進行と共に,職員数は減少の一途を辿っております。これは宇宙研だけの問題ではなく,常に対応策を考えなければならないのですが,職員一人一人の意識と資質の向上が必要なのは言うまでもありません。このような認識を持ち,絶えず努力を傾けることが,今後の課題だと思います。

 若い頃(今でも気分は若いと自負していますが)仕事上,日本の古典芸能を鑑賞する機会が多くありました。日本を代表する歌舞伎,文楽,能,いずれも最初は何のことやら分からず閉口したものですが,だんだん慣れるにしたがって理解も深まり,とりわけ文楽の奥の深さには感心させられたものでした。知られているように,文楽は,人形,三味線,義太夫の三者が一体となって成り立つ芸能であり,その調和の見事さが芸の水準を高めているのです。宇宙研のような研究所においても,研究者,技官,事務官の三者が調和することによって,高い研究成果や水準が継続されるのではないかと思っております。まとまりのないことを書きましたが私の在勤中の年間,宇宙研は厳しいところでありましたが,やさしい温もりのある組織でした。日のプラネットの打上げ成功を真近に拝見させていただき,宇宙研の充実発展を確信して早朝の内之浦町を後にしました。

(滋賀大学事務局長,前宇宙研管理部長 まつもと・やすゆき)


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