No.203
1998.2

ISASニュース 1998.2 No.203

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私見ふるさと考

今澤 茂夫

 研究所に入って,北へ南への出張の明け暮れで気が付いたらあと少しで定年ということになりました。

 私がお世話になったのは千葉の東大生研,観測ロケットは草創期から発展期に入る1959年4月ですから38年と11ヵ月,瞬く間に過ぎたようでもあり大型観測ロケットの先駆となったK-8からM-V型まで,研究所の組織はニ転,場所は三転した道のりを振りかえると,やはり長い年月でしたね。その年に生まれた子がもう40歳に手が届く年,出張先でいっぱし飲み歩いてもあたりまえですよね。

 この長い年月,思い出も多く,限られた紙面では何を話しましょうか。
某君;「今ちゃんは やっぱり能代の話だろう」
今 ;「そうね,能代かなぁ仕事が好きだからね」
某君;「うそ,能代の夜がだろう?」
今 ;「違うよ仕事がだよ?…やっぱり町もかな」
 そんな某君とのやり取りの後,出張で家に居た方が少なかったかも知れない自分にとって“ふるさと”は何処だろう…“第2のふるさと”と言いますが,それは『内之浦』?,『能代』?。あらためて自分の“ふるさと”について考えてみることにしました。

 1962年5月,道川で発射されたK-8-10号機の爆発事故を契機に飛翔実験は内之浦へ,地上燃焼実験は能代へと移り,内之浦はその年2月に行われた起工式から,能代は10月に行われたL-735(3/3)(ラムダ第1段モータ)の燃焼実験からですから通った年月は両方とも同じです。

 広辞苑によれば『古里・故郷』とは(1)古く物事のあった土地。古跡。旧都。(2)自分が生まれた土地。郷里。こきょう。(3)かつて住んだことのある土地。また,なじみ深い土地。とあります。
 自分の生まれた『千葉』は(2),『内之浦』と『能代』は(3)に(1)も少し含まれるのでしょうか。

 ところで,私は仕事にも“ふるさと”があるのではと考えました…仕事を学び覚え,身につけた原点と言いますか,私の場合その原点が能代の仕事にあって,それが能代に魅力を感じるのかも知れません。

 最初の実験も現在と同様に班編成でしたが研究室色が濃厚で,「自分が必要とするデータは自分で取れ!」というのが慣習で,私の所属する森研究室は構造が専門なので歪・振動計測が担当でした。
 計測室から仮設テントのスタンドまで砂浜を150mもケーブルを敷設し,検出器の取付けからゲージ貼りまで,10月の能代は季節風が吹けばもう冬の気配,頭髪の中(今より濃かったので)から長靴の中まで砂が入り宿へ帰れば部屋は勿論のこと風呂の中まで砂だらけ,という環境での作業でした。
 時代変わって現在は,立派な試験棟に計測器類は常備され,計測用ケーブルは設備として完備,場内は完全舗装,昔話が嘘のように整備されました。

 計測の仕事は計測項目を検出器の増幅器別に分け,CPUによるデータ取得まで一括管理するようになりましたが,作業内容は基本的には変わりなく,検出器の準備,較正,取付け,ケーブル敷設等々そして耐熱処理…総て手作業で実験に向けて構築して行く。でも,その面白さ!企業の協力があるにしても主体は職員で。能代の実験は今でも研究室の延長なのです。私はそれが仕事の原点,“ふるさと”ではないかと思います。

 研究室での仕事がパソコンを前にしたデスクワークが主流(総てとは言いませんが)の昨今,物に触れることができる“実験”は職員研修の場にふさわしく,若手の皆さんにも自分の“仕事のふるさと”にして頂けたらと思うのですが。

 出張先では後方支援の旅館にもお世話になります。暫く振りで訪れても「ただいま!」,「お帰り!」と鹿児島,秋田訛りで暖かく迎えてくれる時の安心感,街は大きく変わっても人情は変わらない。これが“第2のふるさと”と感じるのでしょうか。“ふるさと”は外景ではなく人との交流の中に,或はまだ若かった日への郷愁,心象の世界にあるのかも知れません。

(いまさわ・しげお)


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