No.203
1998.2

ISASニュース 1998.2 No.203

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凍てつく北米大陸で実りある収穫

棚次亘弘

 1月11日から22日の日程で,岡部,成尾の両氏とアメリカへ。サンフランスからリノ行の便の乗員が行方不明で出発が3時間遅れる。別の乗員が現れると待合い室に拍手が起こった。アメリカ人は陽気で明るい。3時間も待たされたのに誰も文句を言わない。リノはネバダ州のカジノが許された町である。ここで毎年アメリカ航空宇宙学会が開かれる。会場はアメリカ最大のホテルリノヒルトン。参加者1500人余り,発表論文数1000編を越える大規模な学会で,20近いセッションが同時進行するので,興味のある講演をスケジュールを立てて聴き回った。

 液体ロケット特集のセッションでは,登壇者は皆ロケットの未来は明るく,コスト,信頼性,運用性,成熟性がカギで,こうあるべき,こうすべきという話ばかりで新規な技術の話はなかった。講演終了後の討論ではRBCC(ロケットと空気吸込式複合エンジン)は将来性があるのに,その開発計画は進んでいるのかとの議論に終始した。登壇者はロケットエンジンの専門家で,空気吸込式エンジンに疎く,異文化の融合はアメリカでも難しいようである。超音速旅客機およびNASA超音速研究計画のセッションでは,次期超音速旅客機は乗客300人,巡航速度マッハ2.4,航続距離5000マイルが技術開発と顧客調査で最適であるとされていた。また,50%以上の人は25%程度料金が高くなっても所要時間が半分以下になる超音速旅客機を望んでいるそうである。2010年までには超音速旅客機のノイズは亜音速機とほぼ同程度にできる見通しで,SR71の飛行試験ではソニックブームはあまり問題にはならないと報告された。2025年までには旅客機の55%が超音速機になるとの見込みである。

 リノからサクラメントに移動し,エアロジェット社を訪問。同社で開発したプレイトレット技術に関する詳細な情報を得た。1mm以下の薄板にフォトエッチングで冷却路となる溝を作り,この薄板を積み重ねて拡散接合し,冷却壁やインジェクターに組み上げる技術である。これによって冷却壁の中に自在に冷却路を設けることができる。アメリカ人の頭の器用さに感服した。この技術のATREXエンジンへの応用で話が盛り上がった。純民間資本でキスラー社が開発中の2段式再使用型輸送システム用に同社がロシアから買い付けたNK33エンジンを見学し,ロシアとアメリカの設計思想の違いが興味深かった。日本でもお馴染みのバイケル様が現れ,昼食を共にした。スペースシャトルのエンジン(2段燃焼サイクル)を発明した人で,85歳を越えるご高齢であるが,未だに第一線のエンジニアとして自説を展開されるのには頭が下がる。バイケル様から週末にサンフランシスコ観光に誘われ,ご厚意に甘えた。途中バイケル様の家に立ち寄り,東洋の間を見学。日本人形,着物や掛軸が提示され,取り分け秋葉前所長から送られた人形を大事にされていた。サンフランシスコまで片道160マイルを自ら運転されたが,市内に入り交通量が増し危険と判断して運転を岡部氏と交代した。岡部氏はサンフランシスコ港から金門橋を颯爽と運転したが,帰路,市内からサクラメント方面への高速道路の入口が見つからず焦った。傍らで車に弱い成尾氏は気分悪し。サクラメント市内に近づき,再びバイケル様と運転を交代したが,行き先が定まらず高速道路の分岐点に来てしまった時,突然,分岐点の三角形の分離帯に停車してしまった。3人は恐ろしさのあまり声を上げたが,バイケル様はそれを楽しむかのように行き先表示板を確かめ,目的の方向に悠々と走り始めた。凡人はこの運転を真似しない方がいいが,この手法は最近の日本のあらゆる場面で試みるべきではないか。

 今回の最も重要な訪問先NASAルイス研究所に向かうため,シカゴ経由クリーブランドに移動。飛行機から見た北米大陸は凍てついていた。1週間前からルイス研究所に来て居た佐藤哲也助手と会い,状況を聞く。ATREXエンジン関連の風洞試験に関する情報交換は進展している様子で一安心。NASAからの迎えは雪で30分遅れ,8時にルイス研究所に到着し,直接関係者と風洞試験に関する具体的な議論をし,11時から超音速エンジン開発部長のルソー女史をはじめ,関連部長らにATREXエンジンの開発経過と今後の計画について説明した。私の信条である「推進系に革新がない限り,輸送系に革新はない」ことを披露するとルソー部長大喜び。ルイス研究所長のキャンベル氏にも挨拶をして,昼食後約70km西の広大な敷地( Plum Brook )にある巨大な試験設備を見学した。いずれも1960年代に建設された東西冷戦の遺産で,当初は原子力ロケットを開発するための試験設備であったが,これをうまく改造して利用している。佐藤助手を人質に残し,帰路についた。

(たなつぐ・のぶひろ)


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